scene15 データ
後藤に指示された道玄坂上のカフェの椅子に座り、上田は昨日の夜に起きた、夢のような、夢ではないような出来事を回想していた。夢でも、現実でも、幻覚でも、妄想でも、どうでもよかった。知ってしまったからには、行動するしかないのだから。
昼近く、後藤はいつもとは違って、約束した時間を5分だけ過ぎて姿を現した。顔には夕べのような余裕の色はなく、二日酔いのせいか、少し青ざめているように見えた。後藤は上田の真向かいに座ると店員を呼びつけた。
「ドーナッツを2コ。それと抹茶ラテ。アイスで」
上田の顔をにらみつけながら、そう注文した。上田の頭の中で警報が鳴る。後藤がドーナッツを頼むときは、大抵、いらだっている時だった。
後藤は単刀直入に切り出した。
「オレの仕事を全部断るって、どういうことよ。カネか? 安い仕事ばっかり回してきやがるって思ってるのか」
唇をふるわせながら、言葉を吐き出した。
「そうじゃないんです。後藤さんに頼っていたらダメだな、いつか迷惑をかけるなって思ったんです。だから―」
後藤が上田の言葉をオウム返しにする。
「だから、迷惑かけると思ってるなら、いままでどおりやってくれよ。頼むよ、おい」
後藤が注文した品が運ばれてきた。ドーナッツはひとつずつ、二皿にわけられていた。後藤は上田から視線を外さないまま抹茶ラテを一気に半分飲み干し、1コ目のドーナッツを食べ、上田の前に置かれた皿を自分の方にたぐりよせた。めちゃくちゃイラ立っているとき、後藤はひとつでは満足せず、ふたつのドーナッツを食べるクセがあった。
「後藤さん、計算したんです。これを見てください」
上田はプリントアウトしたエクセルの表を後藤に見せた。月毎の総労働時間と月次売上の数字が並び、売上を総労働時間で割った指数がグラフ化されていた。
後藤は横目でエクセルを一瞥しただけだった。
「なんだっていうんだよ、これが」
「うちの会社にはタイムレコーダーがないので、総労働時間は感覚値のアテです。でも、少なく考えた場合の感覚値なので、実際にはもっと多いかもしれません。よくご存じだと思いますが、うちの会社の仕事の7割以上は後藤さんから回してもらった仕事です」
「だよな。そこまで世話してやって、もうやりませんって言われたオレの気持ちを少しはわかってくれよ」
上田はツバをゴクリと呑み込もうとして、自分の口の中がカラカラに乾いていることに気づいた。
「それはすごく感謝してます。でも、見てください。売上を総労働時間で割っているので、この数字はうちのメンバーの平均時給、っていうことになります」
起業した直後は1,000円台で推移していた平均時給は、後藤が健康食品の営業代行をやり始めたらしい半年後あたりから下がり始め、最近では800円台に下降していた。そのへんのハンバーガーショップの高校生のアルバイトよりも安い時給。薄々気づいてはいたものの、朝、後藤に電話した直後にデータをあわててつくって数値化した時、上田は衝撃を受けた。
「ここまで下がってるのはメンバーの働く時間が長くなっているからです。オレの経営者としての力量不足のせいですけど、アルバイトした方がマシな時給では人は確保できないし、いまいるメンバーも定着してくれないでしょう」
後藤は鼻先で笑った。
「要するによ、上田。手間ばっかりかかる面倒くさい仕事の割に安すぎるから、単価を上げてくれないかっていう話だろ? だったら最初からそう言えばいいんだよ」
後藤はスマホから電卓機能を呼び出して忙しく指を動かし、計算結果を上田に見せた。
「わかったよ。これからは単価を一律5%上げる。そうしたら、どこぞでバイトするより時給はいいべ。それとは別口で、フルコミッションだけど、うちの会社が最近力を入れている健康食品の営業代行の仕事をモモちゃん個人に回すよ。そうしたら、努力次第だけど、モモちゃんの取り分も増える。な? いい話だろ?」
上田と乱暴に呼び捨てたり、モモちゃんと優しく猫なで声を出したり。後藤は口調を忙しくシフトチェンジした。
scene16 スティル・ライフ
「そういうことじゃないんです。後藤さん、すいません、わかってください」
上田が頭を下げる。無表情になった後藤が口を開く。
「6%」
単価を6%アップするという意味だ。上田はなおも頭を下げ続ける。
「6.5…、6.7…」
後藤はバナナのたたき売りの逆バージョンを始めた。上田は頭を下げ続ける。
「このままだと倒産なんです。そうなったら、後藤さんに迷惑をかける。だから、これからはお断りしたいんです」
「7! 7パーでどうだ。これ以上は出せねぇぞ」
テーブルに額をこすり続けている上田をにらみつけながら後藤は吐き捨てた。上田が小さな嗚咽を漏らし始めた。
「あん? 8パーだ、8パー。ありがとうございますと言え、この恩知らず」
「すいません…」
上田は絞り出すような声を出し、頭を下げ続けた。
後藤は静かになり、時間が凍り付いた。2コ目のドーナッツに手を伸ばしかけて、すぐに引っ込め、根負けしたような大きなため息をついて後藤は聞いた。
「モモちゃん、なんでだ?」
上田はしゃくり上げながら、途切れ途切れで答えた。
「タイムマネジメントで、勝負、したいんです。オレが、つくったような、先が見えない、どうしようもないベンチャーを、これ以上、つくらない、ために」
そこまで言うと、もうほかに後藤に伝えるべき言葉がなくなった上田は、ようやく頭を上げた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった上田の顔を横目で見ながら、後藤は腕組みをして憐れむように諭した。
「タイムマネジメント? なんだかわからないけど、下請け根性が染みついているお前に、勝負なんかできるわけがない。もう明日から、お前らはオレが回した仕事の現場に来るな。ダメでした、仕事をくださいって、後で泣きついてきても、知らねぇぞ」
後藤は上田に伝票を叩きつけて店を出て行った。日曜日の昼の渋谷の雑踏に紛れ込んでいく後藤の後ろ姿を上田は無言で見送った。
「黒野、オレは気づけたのかな」
上田は胸の中でそうつぶやいた。
「もっと早く気づくべきだったな、黒野」
* * *
道玄坂上のカフェを出ると、上田は東横線に乗り込み、武蔵小杉の駅ビルの喫茶店に向かった。前の会社の直属の上司に会うためだった。元上司は丸子橋に住んでいたが、「この辺には適当なところがないから」という理由で、武蔵小杉の喫茶店を落ち合う場所に指定した。
アラフォーの元上司は、上田が会社を辞めて起業するとき、応援してくれた。
「ぼくも若い時は上田クンみたいに独立したいって思ってたんだ。でも、家族が突然増えることになって、あわててデキ婚することになったからあきらめてしまったんだけどね。儲けにはならない仕事だけど、ないよりマシだろうから」
そう言って、上田が起業するとほかの会社にアウトソースしていた仕事を、すぐに上田の会社に付け替えてくれた。売上の大半を支えていた後藤の仕事を失ったいま、上田の会社には元上司の“お情け”でやらせてもらっている、このデータ入力作業しか残されていなかった。
上田は約束した時間の10分前に指定された喫茶店に到着した。年季の入ったウォールナット製のドアを押すと、取り付けてあった拳大のカウベルからカラコロンというぬくもりのある音がした。
店の中はコーヒー豆の香りで満たされ、ローリングストーンズの『スティル・ライフ』が控えめなヴォリュームで流れている。元上司は店の奥でコーヒーをすすりながら文庫本の小説を読んでいた。上田の姿を目に留めると右手を上げ、しおりを挟んで文庫本を閉じた。
「すいません、お待たせしちゃいました」
上田は恐縮しながら向かいに座り、アメリカンコーヒーを注文した。
「上田クン、元気そうだね。会社の方はうまく行ってる?」
「えぇ、まぁ、はい」
あいまいな返事をするしかなかった。
「まぁ、知ってると思うけど、ウチの会社の方こそうまくなくてね」
元上司はそう言って苦笑した。
前職の会社が残業代の未払いで労基署の調査を受けていることは上田も知っていた。同業他社にも一斉調査が入っている。発注者が提示するムリな納期にあわせて仕事をしなければならない構造があるので、本質的に解決するなら発注側もどうにかしないと不公平だと上田は感じていた。個別の会社の問題というよりも、未払い残業代の問題は生産性が低い日本社会全体の構造的な問題だった。
上田は、元上司の言葉を待っていたかのように切り出した。
「実はそのことなんです。御社のタイムマネジメントシステムの導入支援と運営サポートをやらせてもらえませんか?」
少し前まで在籍していた会社を“御社”と呼ぶのは気恥ずかしかったが、そんなことに構っていられない。上田は相手の目をまっすぐ見詰めた。
scene17 プレゼン
「タイムマネジメントシステムって、どういうこと?」
元上司は身を乗り出して上田を促した。
上田は、ニュートンから教えてもらったこと、図書室の資料やあの会社の社員の働き方から学んだことを念頭に、新しいタイムマネジメントのあり方、それが未払い残業代という個別の問題への対処療法ではなく、新しい働き方を支援するシステムであることなどを夢中になって話した。元上司は、時折、文庫本の余白にメモを取りながら上田の話を熱心に聞き入った。
「つまり、働き方を変え、生産性を上げ、社員と会社の両方が幸せになる。それを実現するためのシステム、っていうことだね?」
話を聞き終えると、元上司は要点を的確にまとめて上田に確認した。
「そうです」
「で、その分野については上田クンの会社に実績はなく、まさにこれから始める新しい事業、だと」
「そうです」
元上司は考え込んだ。労基署の目が光っているデリケートな問題の解決を、実績のない、駆け出しベンチャーにまかせるなんていうことは、到底、あり得ない。でも、この分野における上田の知識量は圧倒的で、具体的。元社員だけに、カユイところに手が届くようなプランをもっている…。
「わかった。でも、ボクには可否は判断できない。この問題を担当している執行役員につなぐから、プレゼン資料をつくってくれるかな。上田クンが執行役員にかけ合える機会をどうにかして設定してみるよ」
そう言うとスマホを取り出し、その場で電話をかけた。電話の相手に上田の話のポイントを伝え、スケジュールをたずねる。文庫本の余白に日時の数字を書き込み、大きな丸で囲った。
「お休みのところ失礼しました。ありがとうございます。では」
元上司は電話を切ると上田に向き直り、メモを見ながら軽くうなずいた。上田は固唾を飲んで次の言葉を待った。
「上田クン、急で悪いんだけど、明日、月曜日の朝8時30分から15分間だけなら、空いてるって。話だけは聞いてみよう、っていうことだ」
「ありがとうございます」
上田は椅子に座りながら深々とお辞儀をした。
「ただ、あの執行役員、ロジカルというか融通がきかないというか。プレゼン資料にちょっとでも“穴”があると、もうアウトだから」
元上司はそう言って、ため息をついた。おそらく、その執行役員からいつもしぼられているのだろう。
「ほら、上田クンも知ってるんじゃないかな。営業の後藤とかいう“問題児”とひと悶着あった、あの人。上田クンが明日プレゼンする執行役員って、その人だから」
粘着質で陰湿な目の光を思い出した。それ以上に、上田は元上司が発した“問題児”という言葉が引っ掛かった。
「問題児って、どういうことですか」
「あぁ、上田クンは知らなかったか。もう時効だから話すけど、後藤クンが顧客企業の担当者にバックリベートを渡して仕事をとっているのがバレてね。まだ若いし、会社は戒告と配置転換で穏便に済まそうとしたんだけど、“なにが悪いんだ”と後藤クンが開き直っちゃって、それでクビになったんだよ。懲戒免職しようという声もあったんだけど、最後は執行役員が諭旨退職のカタチでおさめたんだ。頑固だけど、温情はある人、と言えるな」
上田の頭のなかで、いろいろなことがつながった。
顧客企業の担当者を言い含めて仕事をとり、バックリベート分と自社の利益をプールした金額で仕事をアウトソースする。当然、アウトソースされた会社の利益は薄くなる。それだけに、営業能力のない、自分の言うことに従うアウトソース先を確保することが大切になってくる。まさに上田のような、営業センスのない、人脈も経験もない人間が経営しているような会社だ。
「そういえば、上田クンの会社って、後藤クンの会社から仕事をもらっているんだよね。それ、もしかしたらマイナス要素になってしまうかも」
「いえ、もう後藤さんの会社とは縁を切りました」
上田の力強い声を聞いた元上司は大きな笑顔を浮かべた。
scene18 青の証
武蔵小杉の喫茶店で会っていた元上司と別れると、上田は桜ヶ丘の自宅マンションに戻り、徹夜でプレゼン資料をつくった。会社のメンバーには、後藤の会社とは縁を切ったこと、月曜の朝から現場には行かなくていいこと、月曜の午後2時に会社に全員集合してほしいこと、詳しい事情はその時に話すことをDMした。そして最後に、これまで大変な苦労をかけてしまったことを詫びる言葉。送信先には黒野も含まれていた。黒野にも届いてほしいと願った。
前職の会社の執行役員に対する痺れるようなプレゼン。15分間だけ許されていた面談時間は、執行役員が次々と質問してくるため、30分、1時間、2時間と伸び、すべてが終わったのは昼前だった。執行役員は細く光る目で、こんな条件を最後に突きつけた。
「正直に言って、やってみる価値があると考えている。だが、ひとつだけ条件がある。まずはキミの会社でこの新しいタイムマネジメントを実践すること。当社はキミたちの実践をキャッチアップするカタチで導入していくことにしよう。自分たちでできないことを押し付けるのは筋が違う。3ヵ月後に、もう一度、話をしにきてくれ」
上田は深々と頭を垂れてお礼を述べ、部屋から出ていこうとしたとき、執行役員から呼び止めた。
「それにしてもキミのプレゼンは、未来を見てきた人のような話だ。そんな人材がわが社にもいればいいんだがな」
後藤の仕事を失ったいま、この3ヵ月をどう乗り切るかが、大きな勝負だった。元上司が世話をしてくれたデータ入力作業だけでは、すぐに干上がるだろう。だが、この壁を上り切れば、新しい地平が開けるはずだった。
戦わなければならない相手と戦うことを上田は決心した。後藤の会社に発注していた元請けの会社にアポをとった。業界では掟破りのやり方。しかし、バックリベートの存在を示す証拠をそろえて訪問すると、すべての会社が上田に直接発注してくれた。こうしたゲリラ戦法が成功したのは、現場に派遣されていたメンバーがしっかり仕事をしてくれていたおかげだった。
上田は自社に『AKASHI』を導入し、新しいタイムマネジメントを実践した。メンバーの生産性が高まり、新しい働き方に興味や賛意をもってくれた人たちが集まった。採用に困ることもなくなった。SEだけではなく、デザイナー、クリエイター、データサイエンティストなど、多様な人材が集まり、いろんなビジネスアイデアを出し、実行してくれた。弱点だった営業部門も強化した。
3ヵ月後、執行役員のもとに自社の現状を報告すると、その場で契約してくれた。本来は役員会を通さなければならない案件だが、それは自分がどうにかする。時間ばかりかけて結論を先送りする役員会にまかせていたら、いつまでたっても進まない。執行役員はそう言って、細い目をさらに細め、上田に握手を求めながら、こんな“謎かけ”をした。
「君は、ブラックでも、ホワイトでもない、新しい働き方を目指している。それは何色なのかな」
執行役員の分厚い手を握りながら、上田は間髪を入れずに答えた。
「ブルーです。可能性しかない、空と海の色です」
執行役員はうれしそうにうなずき、上田の手を力強く握り返した。痛いくらいだった。
* * *
海外とのネットMTGに備えて、朝の8時に出社した上田は、オフィスの大きな窓辺に立ち、空と海がまじわり、溶け合う青い地平線を眺めていた。MTGが始まるのは日本時間の9時ジャスト。向こうは深夜だが、開発者にとってもっともアドレナリンが高まっている時間。戦う気満々であろうMTG相手の顔を思い浮かべ、上田はやれやれと肩をすくめた。
コツコツと積み上げてきた新しいタイムマネジメントシステムを社会インフラに変えていく事業。夢の実現がかかっている。初夏の空の色を映した真っ青な海を見ながら、ここまでの苦労を上田は回想していた。それは、上田にとって苦労ではなく、少しずつ夢が実現していく、ワクワクする5年間の足跡だった。
scene19 クロノス
上田の会社の支援でタイムマネジメントシステムを導入した前職の会社は、労務問題を解決しただけではなく、生産性があがり、業績が上昇していった。すると上田は“タイムマネジメント・ベンチャー”の旗手として、さまざまなメディアに取り上げられるようになった。引き合いが一気に増え、上田の会社は急成長した。
だが、満足できなかった。新しいタイムマネジメントが変革するのは企業活動だけではない。教育・医療・行政など、さまざまな分野に導入でき、社会全体をイノベーションできるパワーをもっていることを知ってほしかった。
そのため、大企業や中央省庁、大学、研究機関などをまわり、影響力のある文化人などもたどり歩いて、賛同者をひとりずつ、増やしていった。その成果がいま「TOMSプロジェクト」という国家プロジェクトとなって結実しようとしている。しかし、それもまだ夢の実現の第一歩にすぎない。どこまでも広がる海を見ながら、上田はそんなことを考えていた。
――背後から自動ドアの開く音がして、海を見ていた上田は後ろを振り返った。ロードバイクを引きながらオフィスに入ってきたのは、1週間くらい前に入社した人事部門の新しいメンバーだった。その隣には、Tシャツ、チノパンで大量の汗をかいている若者。今日から入社する新しい会社の仲間なのだろう、と上田は思った。
「おはよう」
上田は声をかけた。
「あ、おはようございます。今朝はシリコンバレーとネットMTGでしたよね」
上田をはじめ、会社の全メンバーのスケジュールは、『AKASHI』を核としたタイムマネジメントシステムを通じて公開されている。
「うん、敵はクロノスだ」
そろそろ9時。ハードなMTGが始まる時間だ。上田は相手の顔を思い浮かべると数回首を左右に振りながら踵を返して、オフィスの奥にある階段を昇り、2階のMTGルームに入室した。シリコンバレーのラボとつながっているモニターはすでにつけられ、このMTGに関係する数人のスタッフが忙しく資料を整理していた。上田は所定の位置に座り、モニターの向こうで待ち構えている相手に向かって日本語で話しかけた。
「クロノス、調子はどうだ」
「最高だね。今日のMTGを手ぐすね引いて待っていたよ」
「こちらは出社したばかりで頭がまだ回らない。お手柔らかに頼むよ」
「オレがつくった、われわれのタイムマネジメントシステムにAIを組み込むための投資スケジュールにうなずきさえすれば、すぐに二度寝ができるぞ」
「上場を控えていることを考慮した投資スケジュールを組みたいだけだ。わかるだろ?」
「だったら上場なんてやめてしまえ。あるいはお前より有能で資金調達能力に優れた経営者に交代すればいいだけなんじゃないのか」
「名前を文字って、お前のニックネームにギリシャ神話の“時の神”、クロノスをあてがったのはオレの最大のミスだったのかもしれない」
上田はそう毒づいた。待機しているアメリカ側のメンバー、日本側のメンバーの両方から笑いが起きた。モニターに映っている相手は右の口角を吊り上げ、鼻を鳴らした。
「ムダ話で定刻を12秒オーバーした。上田、MTGを始めろ」
「わかったよ黒野、いやクロノス。Time is On My Side、時を味方につけて人々の夢を実現するTOMSプロジェクトの未来について、話をしよう」
epilogue もうひとつの夢
子どもを保育園に送り届け、自宅に戻り、営業企画書をつくる準備を始めた。妻は朝早くに出かけて行った。その年に開催された東京五輪の後に自由が丘のマリ・クレール通りにオープンさせた自分のネイルサロンの早番シフトの日だった。開店から間もないが、『AKASHI』を使ったタイムマネジメントで高いスキルをもっているスタッフたちに自由で生産性の高い働き方をしてもらい、繁盛しているようだった。
結婚前、妻にはずいぶん注ぎ込まされた。しかし、妻の夢だったネイルサロンを開業するための積立資金だったと考えれば、なんとなく帳尻が合った。いつものラップミュージックを流す。「時」をテーマにした、この風変わりなラッパーの楽曲が最近のヘビロテだ。
「にゃ~」という鳴き声が聞こえ、妻がペットショップで一目ぼれしたネコに朝ごはんを上げるのを忘れていたことに気づいた。あわててキッチンに立ってキャットフードの缶詰めを開ける。その音を聞きつけた白いネコが首輪に着けた金色の鈴をチリンとさせて足元にまとわりつく。
サンルームのデッキチェアに座り、PCを開いた。バックグラウンドでは『AKASHI』が打刻してくれているはずだ。経営者向けセミナー、体験ツアーなどのスケジュールを組み、それぞれの内容を詰めていく。直接、顧客企業に出向いてヒアリングし、ソリューションを提案するのも自分の仕事だ。
かつて自分が経営していた会社を潰すという苦い経験をしたが、それでよかったと思っている。だが、会社を潰しにかかった張本人が「自分たちの会社に入ってくれ」と申し出てきたのには、びっくりした。起業を決断させてくれた恩人だし、なにより営業のスキルがほしい、と言ってくれた。
あのまま会社を続けていたら、その方がおそろしい結果が待っていただろう。会社が潰れた本当の原因は、怪しげな健康食品ビジネスに手を出し、大量の在庫を抱え込んでしまったことだった。
企画書づくりに没頭していると、『AKASHI』のアラームが鳴った。いつのまにか子どもを保育園に迎えに行く時間になっていた。「TOMSプロジェクト」を推進する一員として働くことができていることに誇りを感じている。だから、仕事をしている時間があっと言う間に過ぎてしまう。PCを閉じて立ち上があがると、白ネコが待ってましたとばかりにデッキチェアに飛び乗り、さっそく丸くなってまどろみ始めた。
子どもを迎えに行くため、家を出て、ミント色のワンボックスカーに乗り込み、ドアを閉める。その振動でルームミラーの下にぶらさがっているビニールケースに入れたお守り替わりの小さな写真が揺れた。妻との結婚式のときの写真だ。純白のウエディングドレス姿で、あの時プレゼントしたピアスをつけている麗華を真ん中に、後藤と上田の3人が満面の笑みを浮かべているお守り替わりのその写真は、左右に、踊るように揺れていた。
〈――Fin――〉
連載小説「ブルーベンチャー」
第1話「会社、辞めるわ」
第2話「キミが上田クン、かな?」
第3話「TOMSプロジェクト」
第4話「人間って、どこからきてどこに行くんだろうね」