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町工場からIT企業へ、そして上場 ― 3代目社長の決断

設立1947年70期目の老舗企業を上場させた3代目代表渋谷氏の語る「IPOを果たした経営者の“節抜けした瞬間”」
INOUZTimes編集部
町工場からIT企業へ、そして上場 ― 3代目社長の決断

2016年9月、西日本で活躍する成長企業の経営者約300名が一同に会する経営者イベント『西日本ベンチャー100カンファレンス』が開催され、西日本で創業し、IPOを果たした経営者が、その実際を語り合った。
※本記事は株式会社スマートバリュー渋谷氏のパートになります。

[概要]
西日本ベンチャー100カンファレンス
2016年9月15日(木)
主催:イシン株式会社
協賛:有限責任あずさ監査法人/アメリカン・エキスプレス・インターナショナル・インコーポレイテッド/宝印刷株式会社/SMBC日興証券株式会社/オフィスナビ株式会社/Akamai Technologies, Inc.

[セッション]
IPOを果たした経営者達の”節抜けした瞬間”

[スピーカー]
株式会社スマートバリュー
代表取締役社長
渋谷 順

株式会社ホープ
代表取締役
時津 孝康
※記事はこちら

株式会社農業総合研究所
代表取締役CEO
及川 智正
※記事はこちら

[モデレーター]
イシン株式会社
代表取締役社長
片岡 聡

ざまあみろ

片岡

IPOを果された経営者をお招きして、そのリアルなところをお聞きできればと思っております。より突っ込んだ、深いお話を伺えればと思います。

テーマは「IPOを果たした経営者の節抜けした瞬間」。2015年のIPO社数は92社。実際、この裏側にある何倍も準備されてる企業様がいるのがIPOの世界です。そんな中で壁をぶち破り、見事に上場された経営者にお話をお聞きしたいと思います。

渋谷

株式会社スマートバリューの渋谷と申します。上場は、2015年6月16日に東証ジャスダックへ上場させて頂きました。ベンチャーという感じなのかは、よく分からないですが、うちの会社は元々小さな町工場が発祥です。設立は1947年で70期目。創業は1928年です。私で3代目です。

現在は、クラウドソリューション事業とモバイル事業の2つの事業をしております。利益ではほぼ半々のセグメントになっています。

元々、町工場でしたので私も1980年代から働いていました。当時はつなぎを着て仕事をしていました。その後、携帯電話やインターネットが出てきて業態を変化させました。ほんとにつぶれそうな町工場で、ちょうど事業がダメになり始めていたので思い切りました。業態変革から約20年、地道に実績を積み重ねながら、ようやく会社もきれいになって上場を果たすことができました。

現在は「創業88年のITベンチャー」なんて言い方をしています。クラウドとモバイルの領域で展開しています。ちょっと「ぼやぁっ」とした言い方ですが、社会資本の問題解決に向けたサービスソリューションを展開していきたいという思いで仕事をしています。

主に自治体向けの住民情報系のサービスをクラウドで提供などしています。創業から自動車の電機まわりの修理をしていた延長線上で、今は自動車をインターネットに接続をして、自動車そのものを管理するという仕組みのサービス提供も行っています。

これは、最近コネクティッドカーとかIoTというふうに言われるようになってきたんですが、弊社は10年位前からやっていました。そんなキーワードが数年前から出てきまして、かなり大きな波がきているなと思っています。これからも、まだまだ成長したいと思っている会社です。

片岡

まずは、その事業を選んだ理由から教えていただけますでしょうか。

渋谷

先ほどお話ししたように、私がまさにインターネットの事業を土俵として選びました。もともとは町工場として家業をやっておりました。私が29歳のときに、父親が急に他界しました。その時、家業は非常に厳しい状況になっていました。「なんとかせなアカンな」というところがスタートだったんです。

そういう意味では、そんなマイナスのところがあったのが逆に良かったなと思っています。新しいことに踏み出すしかなかったということです。

ちょうどインターネットは1992年に日本では商用サービスが始まっているんです。私は1994年くらいから触っていて、これはホントに世の中を変えるなと思ったんです。

インターネットや情報通信など、よくいわれる言葉ですが、情報通信革命といわれるような波が、ほんとに革命性をもった価値の転倒を持ち込むなぁと凄く感じました。いまだにそれは信じています。

町工場の商売というのは、結構理不尽だったんです。それもあり、もともとの既存の業態や業界で縛られていたところから、何とか新たに変革をさせるためにインターネットの事業に展開しようと思いました。もちろん何もないところからなので「よーいどん」でゼロスタートでした。新しいメディアや新しいネットワークをサービスにしていこうと事業が始まりました。

片岡

3代目でいらっしゃいますが、当時、先代が自動車の修理をずっとやってきたところを事業承継され、同時に事業転換も進められたと思います。ダブルで結構大変なことがあったのかなと思ったのですが、当時のご苦労とか頑張りどころがあればお話をお願いします。

渋谷

苦労ということでもないんですが…(苦笑)。私の想いとして「理不尽な既存社会の枠組みへの反発」だったと思います。昭和の頃はホントに孫請け位の下請け工場だったのでメーカーからのいじめがすごくて。ホントに理不尽だったなと今でも思うんです。

当時、「モバイルの仕事をやる」とか「インターネットの仕事をやる」なんて言ったら業界内では裏切り者ですよ。

それこそ何十年も続いてきた町工場のビジネスの業界の人からは、だいぶ苦言がありました。

「あいつアホやで。あんなインターネットの事業なんかして、絶対うまくいけへんよな」とかですね。本当、散々言われました。

社内でも反発はすごくありました。事業承継をされた方は、わりと多い事例だとは思います。

笑い話になるのですが、ある日会社に行くと僕の椅子の上に画鋲が置かれていたとかですね(会場笑)。そんなアホみたいな小学生みたいなレベルの話もありました。

メーカーさんからはホントに散々に痛めつけられたので、何らかの形で自分たちの成果を出さなければいけないという強い意志はこのときからありましたね。

片岡

椅子に画鋲なんかあったら、大抵の人はあきらめます(笑)。上場を目指そうと思ったキッカケや理由を教えて頂ければと思います。

渋谷

「社会の公器になりたい」と思っています。ちょっといい格好し過ぎですね(笑)。

でも、それはそれでわりと本気でそう思いながらやっています。そんな考えの中で上場というのが出てきたと思います。

今日は事業家の方ばかりなので、正直にいうと、我々の周りには結構敵が多くて。いろんなものをぶっ倒しながら、殴り合いながらここまで来たような経緯もありました。

上場の時に、自分の心の中にあったものは「ざまあみろ」かもしれないですね。事業運営をしていく中で、ずっと「くそっ!」と思っていましたから。

東証でIPOの時に鐘をゴーンと鳴らすんですけど、この前ある人に鐘を鳴らしているときにどう思いました?と聞かれました。答えは当然「ざまあみろ!」です(会場笑)。

僕はプロとして生きてきた以上は、極めて純粋に負けず嫌いな面を持っています。今まで何かと叩かれてきたので、「負けられない!」と強く感じていました。

経営者は、エネルギーが出てくる人間の根源的な欲求に紐づいているような気持ちがなかったら、なかなか嫌なことが多い中で、うまく切り抜けられないと思います。そういう「くそったれ」という気持ちもいいんじゃないかと思いますね。

「社長」と呼んでいた社員が豹変。「お前!」と言われたある日

片岡

結果として上場を果たされましたが、勿論そんな簡単ではないわけです。上場に至るその過程で、諦めそうになった瞬間があり、それをどういう風に乗り越えてきたのかというご経験を、ちょっと突っ込んでお話いただきたいと思います。

渋谷

事業をしていて、凹んだことは何度かあります。

インターネット系のビジネスを1996年からやっていますけど、2000年前後に世の中がITバブルだと言っていた頃、実は一番しんどかったんです。その当時は資金が無くて無くて無くて、ホントに大変でした。

僕、高卒なんですね。IT企業は頭のいい人が多くて、人にも「お前みたいなアホが、賢い奴らのいるマーケットで勝てると思っているの!」と言われて、「確かになあ」と納得してました。

これもエピソードがあります。引き継いだ町工場とは別に、十数名位の小さなインターネットのビジネスを立ち上げてやっていたんです。当時は「ホームページ作ります」とか「何でもやります」「ネットワーク構築します」みたいな、そんな営業をやっていたんです。

ある日、エンジニア以外の営業とか管理とか全社の半分位の社員が、皆で集まって会議やっているんです。そもそもが十数名なので、会議だということは僕も大体わかるんだけど、中身までは知らない会議をやっていました。

そして、急に皆がワッと部屋から出てきて、ついさっきまで私のことを社長と呼んでいたその中の一人が、私に向かって「お前!」と言いましてね(会場笑)。「お前が、アホやからこの会社こんなことになっとんのや」と捲し立てられました。「確かにな」と思いつつも、当時はかなり凹みましたね。

実際、資金も無くなって、月末に入金を待たないと社員の給料が払えない。そんな状況でもありました。

そんな状況が2,3年あったかなと思います。結婚している従業員は、奥さんから朝一番に給料が振り込まれてないことを知らされたりと。

当時は、資金がホントに厳しかったときのことを思うと、かなり凹んだなあ、と思い出します。

まあ、ついてきてくれる人もいて、しばらくの間は、エンジニアと僕で動いていました。管理も営業もすべて、僕一人でやって、それが3年位続きました。それから何とか上向いたんで、「人の3倍やったから乗り越えられたな」ということです。

片岡

その頃、支えていたものは、なんですか。人とか考え方とかありますか。

渋谷

何でしょうね。僕は、信じ切る力というのは抜群に強いと思っています。「情報通信の力って、こんなに強い。だから社会変えられるよね」と。常に信じ込み続けたというのがあります。

上場をしたことで「夢が夢ではなくなった」

片岡

その後ぐっと“節抜けしたタイミング”その時のお話を頂きたいのですが。

渋谷

視線を高く持つように考え始めたというのは、当然あると思います。実はこれまで、何事も属人的だったんです。誰が好きとか、嫌いとか。組織も極めて属人的でした。何でこの仕事をやっているかというストーリーとか、自分は何故働いているのかとか、なぜ起業までしたのかとか。全然整理されていませんでした。

僕は、親の会社を引き継いだので、その意味では、ゼロからスタートしたというよりも、覚悟がまだまだ弱かったんだろうなと思いますね。ですので、今一度、何故この事業やっているんだろうとか、何故働いているんだろうとか、何故経営をしているんだろうとか、すごく考えながら整理してきました。自分の中に事業をしていることのストーリー性と必然性を、ぐぐぐーと腹の底に落とし込んだときに変わりました。

片岡

上場で何が変わったか教えてください。

渋谷

正直、あまり変わったことは無いんです。ただ、高い目標が見えてきたなと思っています。創業88年の三代目ですから、そうは言っても守るべきものも多くて、上場するまでというのは、どうしてもリスクを考えるし、自分なりの思い切った跳ね方ができなかった。想像しても実行に移せなかった。

上場したことで今までとは違った次元のアイディアが出てきています。こんなサービスの提供をしたいとか、プロジェクトを立ち上げたいとか。思い切った発想が出てくるような状態になってきたなと思います。口では言ってても、実際にはできてなかったのですが、リアリティを持ってリスクを取らない事の方がリスクであるという考えを実践できるようにもなったと思います。 そして、実際それが実現できるような人たちと、とにかく会えるようになりました。ここは圧倒的に違うところなんです。

別に時価総額だけにこだわった経営をしているわけではありませんが、これも定量的な会社の通知簿だとすれば、上場前は純資産で数億あったら「ああ、よかった」でしたが、今は、社内的に今の時価総額40億を10倍の400億までもっていこうなんて話が自然にリアリティを持ってできるようになってきています。そういう意味では、次のステップまでちゃんと見せてくれている上場というメカニズムが素晴らしいと思います。自分たちの成長力が湧いてきているので上場してよかったと思っています。

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